インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2010年04月26日

命のやりとりをするほど憎しみは深くない

 日本を金曜日に発ち、ホーチミンシティに1泊してバンコクに入った。
「気をつけてください」
 何人もの日本人の言葉が耳に痛かった。木曜日の夜、シーロム通りに小型の砲弾が打ち込まれ犠牲者が出たからだ。
 タイと20年以上もかかわっていると、こういうことが何回もある。報道の仕事をしていたときは、取材目的でバンコクに入るわけだから、それなりに緊張もした。
 しかしその度に肩透かしを食らう。
 いつもそうなのだ。
 今回もそうだった。
 伊勢丹前の赤シャツ派の集会に入り込む。そこには緊張した空気などどこにも流れていない。お祭り気分である。風船をダーツの矢で割って景品をもらう射的のような屋台まである。アビシット首相のイラストを巻いた缶を並べ、テニスボールをぶつけて景品をもらう屋台もあった。日陰で昼寝を決め込む人々や炊き出しの列に並ぶ人々。これはどう眺めても祭りなのだ。
 これまで何回か、紛争の現場に足を運んでいる。世界の紛争とタイの騒乱の違い。それははっきりとしている。
 タイの騒乱には、宗教と民族問題が絡んでいない。同じ仏教を信ずるタイ人同士の政治的な権力闘争に過ぎないのだ。だから、飽和点に達すると、必ず抑止力が働く。
 民族と宗教の対立に端を発する紛争は凄惨である。憎しみの根深さが違う。ときにその対立は、1000年以上も続いているものもあるのだ。
 たとえば騒乱のなかで死者が出る。宗教や民族対立に根ざした騒乱では、人々の意識は高揚し、火に油を注いだような状態になる。しかしタイでは、衝突で犠牲者が出ると、沈静化の動きが出てくる。赤シャツ派と黄シャツ派の対立は、命のやりとりをするほど深くはない。
 もちろん現場は緊張しているし、血の気が多いタイ人のことだから、ときに銃火器も登場する。しかしそれは限られた世界のことなのだ。
 世界の紛争とタイの騒乱を同列に眺めることに無理があるような気がしてならない。
 いまは日曜日の夜。いたって平穏なサパンクワイのホテルに戻り、この原稿を書いている。赤シャツ派の占拠は続いている。政府との交渉は難航している。これからも爆弾騒ぎはあるのかもしれない。しかし世界の紛争とは質が違う。
 昨夜、タイ人の知人と話をした。彼は赤シャツ派である。何回か、伊勢丹前に出かけたという。
「ちょっと飽きちゃってさ。毎日、暑いしね」
 タイ人らしい落としどころかもしれない。
 今回、タイに来たのは、講演の予定があったからだ。場所が伊勢丹内の紀伊国屋書店ということで、事前に中止になった。ほかの用事があったのでやってきたが、また肩透かしである。そういえば、2年前の後援も、黄シャツ派の空港占拠で中止になった。あのときも肩透かしを食らった。
 僕の講演は、2回も、そんな枠組みに巻き込まれてしまった。
(2010/4/25)


Posted by 下川裕治 at 16:07│Comments(0)
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。