2014年02月24日
戦争の勝者が陥った「美学」
【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、シュムリアップ、プノンペンを経てホーチミンシティ。バンメトートからバスを乗り継いでハノイ。そこからラオス国境のディエンビエンフーへ。
※ ※
ハノイからバスで12時間。ラオス国境に近いディエンビエンフーは、戦争博物館のような街だった。
1954年、ディエンビエンフーの戦いは起きた。第2次世界大戦が終わり、フランスは日本に代わって、再びベトナムに乗り込んできた。しかしハノイを中心にした北部では、植民地支配に対抗するベトナム軍の反撃が強まっていた。この状況を打ち破ろうと、フランス軍は、ディエンビエンフーに攻め入る。
制空権をもっていたフランスは、ディエンビエンフーの空港にパラシュート部隊を降下させ、中心部を掌握していった。
ディエンビエンフーは盆地だ。平地を抑えたフランス軍に対し、ベトナム軍はとり囲む山からの攻撃を計画する。
フランス軍は山からのベトナム軍の攻撃は難しいと読んでいた。山には道すらなく、ロケット砲や大砲をもちあげることはできないと判断したのだ。
しかしベトナム軍は、圧倒的な人海戦術に出る。ロケット砲や大砲を分解し、それを人力で稜線まで運び、組み立ててフランス軍への攻撃を計画するのだ。自転車に300キロもの部品を載せて、稜線に運んだという。
戦いは壮絶だった。犠牲者は双方合わせて1万人を超えた。ベトナム軍が勝利し、フランスはベトナム南部に撤退し、終戦後にジュネーブで開かれた会議で、ベトナムは南北に分かれることになった。
ディエンビエンフーの戦いの勝利。それはベトナムに、ひとつの「戦争の美学」を植えつけていく。それは、「いくら戦闘機などの近代兵器が貧弱でも、国民が力を合わせれば必ず勝つ」という論理だった。どこか中国共産党の長征に似た扱いになっていくのだ。
その後のアメリカとのベトナム戦争を支えたのも、この論理だった。そしてベトナムはサイゴンを陥落させた。
だからディエンビエンフーは大切な土地だった。激戦地であるA1やD1といった丘は保存され、破壊されたフランス軍の戦車が置かれた。市内にはいたるところにフランス軍の戦闘機を撃ち落とした高射砲や戦車が展示されていた。さながら街が戦争博物館のようだった。墓地の整備も進んでいた。墓石に刻まれた死亡年は、すべて1954年である。
ベトナム共産党は、しばしばこの街で、戦争に勝った記念式典を開く。やってくるベトナム人は、ここで「戦争の美学」を学ぶという設定である。
この戦争がなかったら、ディエンビエンフーは、ラオス国境に近い地方都市にすぎなかったのだろう。
街のなかを歩きながら、収まりのつかない無力感に襲われる。たしかにベトナムは、フランスとアメリカに勝った。しかし勝ったことが自信を生み、中越戦争やカンボジア侵攻につながってしまうのだ。
戦争というものは、勝者にも拭いされない傷を負わせるもらしい。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html。
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。
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裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、シュムリアップ、プノンペンを経てホーチミンシティ。バンメトートからバスを乗り継いでハノイ。そこからラオス国境のディエンビエンフーへ。
※ ※
ハノイからバスで12時間。ラオス国境に近いディエンビエンフーは、戦争博物館のような街だった。
1954年、ディエンビエンフーの戦いは起きた。第2次世界大戦が終わり、フランスは日本に代わって、再びベトナムに乗り込んできた。しかしハノイを中心にした北部では、植民地支配に対抗するベトナム軍の反撃が強まっていた。この状況を打ち破ろうと、フランス軍は、ディエンビエンフーに攻め入る。
制空権をもっていたフランスは、ディエンビエンフーの空港にパラシュート部隊を降下させ、中心部を掌握していった。
ディエンビエンフーは盆地だ。平地を抑えたフランス軍に対し、ベトナム軍はとり囲む山からの攻撃を計画する。
フランス軍は山からのベトナム軍の攻撃は難しいと読んでいた。山には道すらなく、ロケット砲や大砲をもちあげることはできないと判断したのだ。
しかしベトナム軍は、圧倒的な人海戦術に出る。ロケット砲や大砲を分解し、それを人力で稜線まで運び、組み立ててフランス軍への攻撃を計画するのだ。自転車に300キロもの部品を載せて、稜線に運んだという。
戦いは壮絶だった。犠牲者は双方合わせて1万人を超えた。ベトナム軍が勝利し、フランスはベトナム南部に撤退し、終戦後にジュネーブで開かれた会議で、ベトナムは南北に分かれることになった。
ディエンビエンフーの戦いの勝利。それはベトナムに、ひとつの「戦争の美学」を植えつけていく。それは、「いくら戦闘機などの近代兵器が貧弱でも、国民が力を合わせれば必ず勝つ」という論理だった。どこか中国共産党の長征に似た扱いになっていくのだ。
その後のアメリカとのベトナム戦争を支えたのも、この論理だった。そしてベトナムはサイゴンを陥落させた。
だからディエンビエンフーは大切な土地だった。激戦地であるA1やD1といった丘は保存され、破壊されたフランス軍の戦車が置かれた。市内にはいたるところにフランス軍の戦闘機を撃ち落とした高射砲や戦車が展示されていた。さながら街が戦争博物館のようだった。墓地の整備も進んでいた。墓石に刻まれた死亡年は、すべて1954年である。
ベトナム共産党は、しばしばこの街で、戦争に勝った記念式典を開く。やってくるベトナム人は、ここで「戦争の美学」を学ぶという設定である。
この戦争がなかったら、ディエンビエンフーは、ラオス国境に近い地方都市にすぎなかったのだろう。
街のなかを歩きながら、収まりのつかない無力感に襲われる。たしかにベトナムは、フランスとアメリカに勝った。しかし勝ったことが自信を生み、中越戦争やカンボジア侵攻につながってしまうのだ。
戦争というものは、勝者にも拭いされない傷を負わせるもらしい。(以下次号)
(写真やルートはこちら)
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Posted by 下川裕治 at 13:27│Comments(0)
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