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ナムジャイブログ

2021年08月09日

オリンピックの犠牲者たち

 オリンピックが終わった。ほっとしたような思いが強い。オリンピックはあまり見ないようにしていたのだが、日本にいて、オリンピックから目をそらし、耳を閉ざすことはかなり難しい。テレビをつけると、ほとんどの局から、興奮気味のアナウンサーの声が響いてくる。その内容はときにナショナリズムを刺激する。メダルをとった選手がこんなことをいう。
「日の丸を背負って闘いました」
 メダルに手が届いた選手はいいが、予想外の結果に終わることもある。彼らからこんな言葉が聞こえてくる。
「土下座をして謝りたい」
 誰に謝るのだろうか。
 アスリートたちはわかっている。厳しい練習に耐えるのは、自らの高みをめざすためであって、国のためではない。しかし彼らはまた、オリンピックの論理もわかっている。
 日の丸を背負って闘うというナショナリズムで視聴率は高くなる、と。ちょっと穿ちすぎかもしれないが。
 今回はオリンピックに反対する日本人がかなりいた。新型コロナ対策を優先すべきという人たちだ。僕はそうとも思わなかった。人生をかけて練習を重ねてきたアスリートにとっては集大成の場である。それは新型コロナウイルスとは無縁のことだ。そんな彼らに場を提供することは意味がある。
 そこで終わらないところに、オリンピックの薄気味悪さがある。オリンピックは、ナショナリズムを巧みに利用したイベントだといっていい。純粋なスポーツイベントならすっきりするのだが、そこをナショナリズムで脚色し、収益を生み、多くの利権をつくっていることに噓寒さを感じてしまうのだ。
 僕は日本人である。そして当然、日本人としてのナショナリズムを抱えもっている。いくら意識でオリンピックを遠ざけようとしても、つい目に入ってしまう競技に熱がこもってしまうのだ。それはどこか本能に近いものがある。
 その一方で、人類はナショナリズムというものによって多くの過ちを冒してきたことも知っている。だから人には、ナショナリズムを刺激する場をできるだけ減らしていくべきだという思考性もある。それが人類の英知ではないかと……。
 しかし現実はそんなにきれいにいかない。それもわかっている。
 東京にオリンピックを誘致しようとした人々のなかは、57年前の東京オリンピックの残像が生きていた気がする。高度経済成長の勢いのなかで、日本のナショナリズムは高揚していた。そこで生まれた神話を再現しようとした。
 しかし57年の間に、日本人はちょっとだけ大人になった気がする。バブル崩壊からの不況のなかで、諦めの境地を知り、グローバリズムという世界で生きていくしかないことを悟っていった。それは進化だと思う。
 当時の日本は、いまの中国に似ている。高揚する国家感に中国人はまだ疑問を抱いていない。オリンピックというものは、そんな高揚するナショナリズムをマッチポンプのように使い、肥大したイベントである。
 もう昔の日本ではない。日本人はそう思いながら、57年前の日本に躍ろうとした。しかし実像は神話には結びつかなかった。
 やはりオリンピックは構造的に矛盾を抱えすぎている。その犠牲者は少なくない。

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Posted by 下川裕治 at 14:45│Comments(0)
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