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ナムジャイブログ

2022年12月05日

そっと置いておくもの

 日本はいま、サッカーのワールドカップで盛りあがっている。ドイツとスペインに競り勝つという歴史的な勝利に、日本のサッカーの実力を確信した人も少なくない。
 実況を観たわけではないが、テレビで繰り返し流される試合の様子やサポーターの興奮を目にした後、僕はなにか後味の悪さを感じとってしまう。自分のなかにあるナショナリズムを、無理やり刺激されたような違和感が残ってしまう。こういうと批判に晒されるのかもしれないが。
 サッカーの世界は国際化が進んでいる。ヨーロッパのリーグに参加しているチームの選手の国籍は多彩だ。肌の色が違う選手たちがひとつのチームを構成している。
 その状況のなかで、あえて国家という枠をはめて行われるのがワールドカップだ。国家という装置を使った大会なのだ。そのほうが通常の試合より、はるかに多くの収益があがる。人々はナショナリズムを刺激され、興奮の渦に入り込んでいく。熱狂するサポーターの姿を見ると、そのあたりがよくわかる。
 しかしナショナリズムというものは、その扱いを間違えると、紛争を招く。国家というものが、ある意図に染まったとき、利用するのがナショナリズムといってもいい。ある種の禁じ手なのだ。
 いまのロシアとウクライナの領土紛争をみるとよくわかる。ロシア人とウクライナ人のナショナリズムがぶつかっている。それを誘引したのがプーチンである。
 近代の戦争の多くは、このナショナリズムを利用している。ナショナリズムが政治の前面に出てくることは戦争の兆候でもある。人類はその反省のなかで、ナショナリズムを扱っている。ナショナリズムは前面に出すものではなく、そっと置いておくものだと……。
 多くの人たちの日々は、国際化の流れのなかにいる。仕事相手には外国人も多い。日本人にしても、日々、外国人と接して生きている。コンビニで応対してくれるのは外国人留学生が多い。しかしワールドカップの試合がはじまると、それぞれのナショナリズムに火がついてしまう。
 祭りなのだと思う。ナショナリズムというものは禁断のツールだが、4年に1度、その制約をとり払い、ナショナリズム全開で大声を出そうというのがワールドカップ。それは人々にとってのガス抜きでもある。
 そんなことを考えて試合を観てなにが楽しいの? という誹りを受けることはわかっているが、試合の後の居心地の悪さはどうすることもできない。もちろん、僕のなかには日本人としてのアイデンティティはある。ナショナリズムも内包している。しかしそれは意識のなかにそっと置いておけばいいもので、えぐられるように表舞台に出されると、そのときは興奮しても、試合が終わると、とらえどころのない虚しさに包まれてしまうのだ。
 ワールドカップという祭りは少しつらい期間でもある。

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Posted by 下川裕治 at 10:16│Comments(0)
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