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ナムジャイブログ

2018年01月29日

リスクを回避する二重国籍

 テニスの全豪オープンで活躍した大阪なおみさんの国籍問題で、さまざまな意見が出ているという。
 彼女はいま、アメリカと日本の二重国籍状態。彼女の場合、22歳までのどちらかに決めないといけない。それに対して、「日本の選手として活躍してほしい」といった意見や、「彼女はあまり日本語がうまくないので、日本国籍をとるべきではない」という人もいるらしい。
 この論争を、海外、とくに欧米の人たちはどう見るのだろうか。
 欧米に限らず、世界には二重国籍の人は多い。僕の知人はフランスに住んでいるが彼女の娘さんは4つの国籍をもっている。いまはニューヨークで働いているが、海外に出向いたとき、いったい私はどのパスポートで入国したのか混乱する、と笑っていた。
 日本人は、国籍問題になると、日本国民というアイデンティティに結びつけた考えてしまう人が多い。しかし、世界の人ひとたちの発想は少し違う。アイデンティティの問題がないわけではないが、どちらのほうが有利かと考える人が多い。
 世界の労働環境はそれほど甘くない。仕事がなかなか見つからない国は多い。
 仮に日本とアメリカの二重国籍を考えてみる。日本がとんでもない不況に襲われ、仕事が全くなくなってしまったとする。そのとき、アメリカの景気はよく、働き口があったとしよう。日本人はアメリカで働きたいと思うが、国籍が日本だけなら、それは大変なことだ。居住権を得、働くことができる資格をとらなくてはならない。しかしもし、日本とアメリカの両方の国籍をもっていれば、なんの問題もない。アメリカに渡り、自由に働くことができる。日本とアメリカの経済状態が逆転しても問題はない。
 二重国籍とはそういうことなのだ。世界の人が考える二重国籍は、アイデンティティではなく、生きるためのリスクを回避するための手段なのだ。
 それはあたり前の庶民の発想だろう。人は皆、生きていかなくてはならない。アイデンティティより、生きることが優先される。
 だから経済状態が悪い国にいる人ほど、二重国籍に憧れる。
 日本人でもそのあたりがわかってきている人たちがいる。海外で働いている日本人だ。労働ビザをとることがいかに面倒なことなのか、身をもって知っているからだ。
 旅も似たところがある。日本人はアフガニスタンのビザをとることができないが、アメリカ人は簡単に取得できる。玄奘三蔵の歩いたルートを辿る旅が、はじまっている。玄奘は、アフガニスタンを通過している。しかし日本人の僕は、そのルートを辿ることができないのだ。アメリカ人が羨ましかった。

■このブログ以外の連載を紹介します。
○クリックディープ旅=ベトナムの旅。ハノイからホーチミンシティへ。
○どこへと訊かれて=人々が通りすぎる世界の空港や駅物。
○東南アジア全鉄道走破の旅=苦戦を強いられている東南アジア「完乗」の旅。インドネシアの列車旅の連載中。
○タビノート=LCCを軸にした世界の飛行機搭乗記


Posted by 下川裕治 at 12:07│Comments(2)
この記事へのコメント
下川さんの意見に同感ですね。
その国の国籍を取るのは生きる手段だと思います。

現在私も豪州に住み20年近くになりますが、ちょうど10年前私がこちらの国籍を取った理由は大学の学費が払えず前年度までは永住権保持者でも学費ローンが制度がとれたのに、ある年突然豪州国籍保持者しか当てはまらなっくなったからです。

資格を取るために入学した大学をどうしたものか悩んでいたところ、学費などを払う事務職員が、「国籍とれば?」の一言からでした。

ちょうど永住権の書き換えの年で、調べたら国籍を取る費用の方が永住権延長費用よりかなり安かったので、とりあえず申請しました。
あっけない程簡単に取れたことに驚き、その後無事政府からお金を借り大学生活を終える事ができました。

その後の就職や家を購入するときなども国籍を持っていたことですべてスムーズにでき、現在があることを実感しています。

難民問題なども日々大きく取り出されれていますので、ますます先進国の国籍をとるのは難しくなってきています。

経済、安全面が不安定な国の人にとっては喉から手が出るほど先進国の国籍がほしいのだと思います。彼らは生きる手段として、あらゆる危険を冒してきてますからね。

ただ単に英語が話せないから、その国で育っていないからその国の国籍を持つべきじゃないという安易な考えだけじゃない人達がいる事を海外にいると感じますね。

国籍とアイデンティティは別です。
Posted by 無国籍 at 2018年02月02日 18:13
昔、世界文学全集というのがいろいろなところから出ていましたが、不思議なことに日本文学はひとつもはいっていませんでした。日本は世界に含まれず、世界の外にあるということなのでしょう。しかもその中身を見てみると、世界を唱えているくせに内実はヨーロッパ文学で、インド、アラビア、ペルシア、アフリカ、南米などの文学は含まれていません。

ヨーロッパ人は世界の中心は自分たちだと思っています。ヨーロッパ内の狭い地域の戦争を「世界大戦」と命名した人たちです。これもどうかと思いますが、日本人は逆に日本を世界の外部にあると思っているようです。

新聞が「アジア諸国が懸念している」などと書いたとき、その「アジア諸国」にはシリア、トルコ、イスラエル、スリランカ、タイ、モンゴルなどはきっと含まれていません。同じように日本人が言う「世界」とは、実際の世界とは相当ちがっているのだろうと思います。

下川さんは「世界の人」と書いておられます。しかし「世界の人」の考える二重国籍はアイデンティティというよりも、むしろ生きるためのリスクを避ける手段であり、それがあたりまえの庶民の発想だというのはすこし無理があると思います。

日本の庶民はあまりアメリカ国籍などを欲しがっていませんが、アメリカの庶民もまた日本国籍をそれほど欲しがっているとは思えません。またイギリス、フランス、ドイツといった国々の庶民が、日本国籍やアメリカ国籍をリスク回避のために欲しがっているとはあまり考えられません。日本人はこうだが、世界の人々はちがうという物言いは日本の文化人の常套ですが、明治のころとちがって、今の日本は「世界」の重要な構成部分になっていると思います。
Posted by くろねこ at 2018年02月03日 22:01
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