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ナムジャイブログ

2011年11月14日

バングラデシュでの「ああ、20年」

 バングラデシュのコックスバザールにいる。蒸し暑くて雨が多い気候の国だが、ようやくすごしやすくなってきた。今回は13人の大学生と一緒に滞在している。
 この街の小学校の運営にかかわっている。以前は日本人の寄付でまかなっていた。しかしそれが難しくなってきた。バングラデシュが高度経済成長の波に乗りはじめ、急激なインフレがおきている。かつて1タカだったチャイはもう5タカになった。当然、先生たちの給料も引き上げなくてはいけないのだが、日本の景気が低迷している。日本人の寄付に頼ることができなくなってしまったのだ。
 かつての先進国と途上国は、年月の流れのなかで、昔のような関係をつくることができなくなってきているのだ。
 僕らは2年前から、日本人からの寄付に頼る構造から離れることにした。メンバーに出資してもらい、タクシーを3台買った。その収入で、先生の給料をまかなおうとしたのだ。物価が上昇すれば、タクシーの運賃もあがるはずだ。そうすれば、なんとかなるかもしれない……という読みだった。
 しかしこの事業がなかなか軌道に乗らない。それなりの収入はあるのだが、タクシーの修理代が思った以上にかかるのだ。高度経済成長といっても、バングラデシュの道は相変わらず悪い。車が多くなり、前より傷んできた気がする。経済成長にインフラが追いつかない状態である。
 12月末まで様子をみることにした。その収支をみて、故障の多い1台を売ることを考えている。その売却代でなにをはじめたらいいのだろうか。
 いろんな人に聞いても、これといったアイデアはなかなか出てこない。
 これからも悩みは続きそうだ。
 学校の運営をはじめたきっかけは、友人の死だった。フリーランスのジャーナリストだった友人は、このエリアに住む少数民族のラカイン族を日本に紹介しようとしていた。その過程でミャンマーの民主化運動が起き、多くの学生がバングラデシュとの国境に逃げてきた。その取材に向かい、脳性マラリアになってしまった。ダッカで発症し、あっけなく死んでしまった。
 遺体の受けとりのためにダッカに向かった。彼の奥さんとお父さんと一緒だった。
 彼の遺体と一緒に日本に帰ったのは、1991年の3月末だった。
 そして翌月、次女が生まれた。
 その次女が今回、一緒にこの街にきている。もう大学生なのだ。
 その間、僕は日本とバングラデシュの間で右往左往を繰り返してきた。それぞれの国が変わり、その軌道修正がなかなかうまくいかない。20年前は考えてもみないことだった。


Posted by 下川裕治 at 15:05│Comments(0)
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