インバウンドでタイ人を集客! 事例多数で万全の用意 [PR]
ナムジャイブログ

2014年03月31日

中国ナンバーのベンツが走り抜ける

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジア、ベトナムを北上。ディエンビエンフーからラオスのムアンクアに入った。そこから川を下り、ノーンキャウに着いた。
     ※       ※
 ノーンキャウからルアンパバーンまでは3時間。これまでの旅を思えばあっという間だった。途中、自転車を漕ぐバックパッカーを何人も追い抜いたが、何台かの対向車とすれ違った。ベンツの高級車だった。ナンバープレートのはじめには、「云」という漢字。中国の雲南省の車だった。
 これを中国の膨張主義ととらえていいのかは議論が分かれるかもしれない。しかしラオスにはいま、かなりの数の中国人が入り込んでいる。彼らは自分たちの車でラオスに入ることができるらしい。
「すごい高級車ですよ。数千万円はする」
 車に詳しい阿部稔哉カメラマンがカメラをのぞきながらいう。中国人の金もちの行動はどうしても鼻についてしまう。ラオスにベンツでやってくるのだ。
 ノーンキャウからのバスが着いたのは、北バスターミナルだった。僕らは翌日、さらに西に向かうつもりでいた。
 西に向かうバスは南バスターミナルから出発するという。トゥクトゥクで向かった。
「………?」
 南バスターミナルに近づくにつれ、「ここはどこ?」状態に陥っていった。看板に漢字が増えてきたと思っていると、その数はどんどん増し、漢字の看板しかないような世界に入り込んでいたのだ。
 ルアンパバーンの南バスターミナル周辺には、リトルチャイナができあがりつつあるようだった。
 中国はいま、ラオスのなかで、さまざまなプロジェクトを行っている。鉄道建設、火力発電所プロジェクト、木材ビジネス……。中国政府はラオス政府から森林をリースする事業を行っている。50年のリースで借りた森林から、木材を切り出し、植林をして、50年後には元の森林に戻して返却するという手法である。はたして50年後、どういうことになるのかわからないが、事業はすでに進んでいるという。
 金と一緒に人も送り込む──。これが中国プロジェクトの特色である。多くの中国人労働者が、ラオスで働きはじめている。彼らの住む一帯は、中国語と中国元が通用する。
 ルアンパバーンの南バスターミナル周辺の街は、そんな中国人居住区のひとつになっているようだった。
 まるで植民地になっていくような感覚。ラオス人が抱いたのはそんな怖れだった。わがもの顔で入り込んでくる中国人は、不気味だった。ラオスの政権も、中国のやり方に首を傾けはじめる。いま、いくつかのプロジェクトが再検討されはじめたという。
 メコン川に面した山間の古都がこんなことになっていたのだ。
 南バスターミナルでバスチケットを買った僕らは、旧市街に向かった。トゥクトゥクで10分ほどである。
 それは、中国からラオスに戻っていく時間だった。(以下次号)

(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 11:57Comments(0)

2014年03月24日

欧米人バックパッカーのためのエリア

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、ベトナムへ。ハノイからディエンビエンフー。そこからラオスに入国し、ムアンクアから船でノーンキャウに着いた。
     ※       ※
 ようやく雨があがった。ノーンキャウに1泊した朝、オウ川に架かる橋に出かけた。橋の上には、町の人が数人集まっていた。皆、増水した川の流れを見つめている。
 この一帯に降った雨は、数日、続いたようだった。僕らはベトナムのディエンビエンフー以来、ずっと雨のなかを旅してきた。冷たい長雨は、この地方でも珍しかったらしい。
 褐色の川面を大木が流れていく。上流では増水した水で川岸がえぐられたのだろう。そこに生えていた木々が流れてきていた。大きな木が橋の下を通るたびに、声が湧き起こった。そのなかに、ひとりの欧米人がいた。
「昨日、この町で自転車を借りて、近くの村をめざしたけど、雨がひどくて、途中で引き返してきたんです。今日は大丈夫そう」
 そういって彼は空を見あげた。
 昨夜、何人もの欧米人バックパッカーに出会っていた。雨のなか、食堂を探した。開いているのは一軒しかなかった。高床式の家を利用した食堂だった。二階が食事をするスペースになっていた。そこにあがると、大きなテレビモニターがあり、ハリウッド映画が流れていた。夜になり、することもない彼らはここに集まってきていた。毛布を足にかけ、ワインを飲みながらビデオに見入っていた。
 何人かはルアンパバーンから自転車でやってきていた。彼らがもっていたガイドブックを見せてもらった。この一帯を自転車でまわるコースやプランがしっかりと紹介されていた。英語が通じる村の食堂、途中で水を補給できる雑貨屋、そしてコースタイム……。
 この一帯はサイクリングに最適なところのようだった。
 ムアンクアからの旅を思い出していた。ラオスに入り、急に旅が楽になった。英語が気持ちのいいぐらい通じるのだ。しかし数時間もすると、そのカラクリが見えてくる。ラオスの山のなかで暮らす人たちは食堂など縁のない人が多い。町一軒の食堂の客の大半は欧米人なのだ。いや、彼らを当て込んで食堂ができたのかもしれない。つまりそこしか英語が通じないつくられた世界でもあるのだ。町に一軒しか食堂がないのだから、高いのか、おいしいのかの比較もできない。ベトナムのように、言葉は通じないが、店がぎっしりとある世界とは違った。それほどまでに、この一帯の人の密度は低いようだった。
 ルアンパバーンから、このノーンキャウまでは道が通じている。その日、僕はバスでルアンパバーンに向かった。途中、何人もの欧米人を追い抜いてバスは進んでいった。(以下次号)

(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 11:26Comments(0)

2014年03月18日

【新刊プレゼント】週末ベトナムでちょっと一服

下川裕治の週末ベトナム旅。
新刊「週末ベトナムでちょっと一服」プレゼントのご案内です。

【新刊】



下川裕治 著


週末ベトナムでちょっと一服


◎ 本書の内容

 路上での朝のコーヒー、バゲットやムール貝、ビーフシチューから漂うフランスの香り─
そんな旅行者におなじみのおいしいベトナムから、ホーチミンとハノイという南北の微妙な関係、都市と地方の格差まで。
深くてゆるい、週末ベトナム旅。

バイクの波を眺めながら路上の屋台コーヒーを啜り、バゲットやムール貝から漂うフランスの香りを味わう。ホーチミンシティとハノイを行き来しながら思い浮かんでくるのは、「フランシーヌの場合」のあの時代。追憶のなかから今を描く、ゆるくて深い週末ベトナム。


【プレゼント】


新刊本「週末ベトナムでちょっと一服」を、

抽選で"3名さま"にプレゼントします!

応募の条件は以下です。

1.本を読んだ後に、レビューを書いてブログに載せてくれること。
(タイ在住+日本在住の方も対象です。)

応募は以下の内容をご記入の上、下記のお問合せフォームよりご連絡ください。応募受付期間は2014年3月31日まで。当選発表は発送をもってかえさせていただきます。

えんぴつお問合せフォーム
http://www.namjai.cc/inquiry.php


1.お問合せ用件「その他」を選んでください。

2.「お問い合わせ内容」の部分に以下をご記載ください。
 ・お名前
 ・Eメールアドレス
 ・ブログURL(記事を掲載するブログ)
 ・郵送先住所
 ・お電話番号
 ・ご希望の書名(念のため記載ください)

今すぐほしい!という方は、下記アマゾンから購入可能です。

えんぴつアマゾン:
週末ベトナムでちょっと一服(朝日文庫)

  

Posted by 下川裕治 at 15:26Comments(0)

2014年03月18日

イノシシと鹿の死体が積まれた船

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。カンボジアに入国し、シュムリアップ、プノンペンを経て、ホーチミンシティ。ベトナムを北上し、ディエンビエンフーからラオスのムアンクアに入った。
     ※       ※
 篠突く雨のなかを船は岸を離れた。この日の乗船者は6人。ひとり15万キップ、約1900円になった。しかしオウ川を下りはじめ、次々にラオス人が乗ってくる。僕らは彼らの船賃まで払っているような気になってくる。
 寒かった。船はブルーシートを窓代わりにおろしているのだが、その間から、冷たい風が雨と一緒に吹き込んでくる。ありったけの衣類を着込み、ヤッケを羽織るのだが、体温がどんどん吸いとられていく。
 吐く息が白い。12月のラオスがこんなに寒くなるとは思いもしなかった。やがてつま先の感覚がなくなっていった。
 1時間ほど下ったときだろうか。船は川岸に近づいていった。おしっこをしようと岸にあがると、足が止まった。土手の泥の上に、動物の死体が置かれていた。
「イノシシ?」
 頭部が切り落とされ、そこから血が流れている。黒い毛が雨に濡れている。大きなイノシシだった。今朝、川岸の村で獲れたのだろうか。
 船頭が船から秤を持ち出した。3人がかりでイノシシを秤に載せる。55キロ。船頭の奥さんがノートを出し、輸送代を計算する。村の青年はその金額に納得しない顔をした。しかし船は1日1便しかない。話がまとまったらしく、イノシシはどすんという音を残して船に積み込まれた。それも乗客の座る場所。僕らは頭部のないイノシシの死体と一緒に川を下ることになった。
 それから10分ほど船は下っただろうか。再び川岸に近づいていく。
 するとそこに、鹿の死体が置かれていた。獲ってから少し時間がたっているらしい。死臭が漂ってくる。
 しかし船頭は淡々と秤を出し、重さを測って、鹿の死体をイノシシの上にどすんと置いた。
 イノシシが積まれたとき、船体の会話が止まった。欧米人の女性バックパッカーは、うつむいたままだ。男はことさら平静を装うかのようにクッキーを食べたりするのだが、その動作がぎこちなかった。
 そこに鹿が積まれ、船内には諦めのような空気が流れた。
 ここはラオスなのだ。
 森の暮らしでは、動物の肉は貴重なタンパク源である。市場にリスもどきの動物がそのまま売られていて、一瞬、足が止まる国なのだ。そこを下るローカル船だから、動物の死体を運んでも不思議はない……そう、自分にいい聞かせるしかない。しかし風向きが変わると、イノシシの血のにおいや鹿の腐りはじめた肉のにおいが漂ってくる。
 船は冷たい雨のなかを下っていった。途中の村から、9人の子供がどやどやと乗り込んできた。Tシャツに半ズボン、ビーチサンダルの子もいる。船に乗っても寒さで震えが止まらない。ところが、年長の子供が冗談をいったのか、皆が笑う。僕の前に座った少年は震えながら笑った。
 子供たちは20分ほど下流の村で、どやどやと降りていった。彼らの座った後には、濡れた泥がべったり残っていた。冷たい風は弱まる気配もない。
「風の又三郎……」
 なぜか宮澤賢治の短編のタイトルを思い出していた。
 船は5時間ほど下って、ノーンキャウに着いた。身を縮め、寒さに耐え続けた時間だった。船が岸に着き、土手につくられた階段を上ろうとしたのだが、足が動かなかった。しびれてしまった足に感覚はなく、足に力が入らないのだ。しばらくすれば、血行が戻ってくる……。そう思うのだが、なにか感覚が違った。それはカメラマンの阿部稔哉氏も同じようだった。
 よろよろと階段を上がり、その上にあった茶屋になんとか辿り着いた。温かいコーヒーを頼み、暖をとる。
 足の感覚が戻ってきたのは、1時間ほど後だった。こんなことははじめてだった。(以下次号)

(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。
  

Posted by 下川裕治 at 15:17Comments(0)

2014年03月10日

ラオスで吐露してしまう日本の厳しさ

【通常のブログはしばらく休載。『裏国境を越えて東南アジア大周遊編』を連載します】
【前号まで】
 裏国境を越えてアジアを大周遊。スタートはバンコク。タイのスリンからカンボジアに入国し、ベトナムへ。ハノイからディエンビエンフー。そこから国境を越え、ラオスのムアンクワに着いた。
     ※       ※
 ムアンクアからルアンパバーンに出ることにした。ルートはふたつあった。ひとつはウドムサイ、パックベンとバスで進み、そこからメコン川を船で下るルート。もうひとつはムアンクアからノーンキャウまでオウ川を船で下り、そこからバスで向かう方法だった。
 かつてのラオスと違い、いまは山深いムアンクア周辺にもしっかりとした道がつくられていた。バス便の安定感も増しているようだった。しかしウドムサイをまわるルートは大まわりになる。乗り継ぎが悪ければ、3泊4日の旅になる。オウ川を下る船に乗ることにした。
 船着き場がどこなのかもわからなかった。ムアンクアはふたつの川が合流するところにできた町である。船着き場はいくつもある。
 町なかにツーリストセンターらしいオフィスがあった。しかしラオスらしく、誰もいない。締められたドアに貼り紙があった。
──ノーンキャウ行きの船は午前9時に出発する。運賃は最低10万キップ、最高100万から120万キップ。
 差がありすぎた。10万キップは1300円ほどである。数時間の船旅なら妥当な金額かもしれない。しかし100万キップは約1万3000円もする。
「これってつまり、船代を客の頭数で割るってことじゃないかな。10人ほどの人数が集まれば、10万キップになる」
「明日の朝にならないと運賃がわからないってことですよね」
「もし客が僕らしかいなかったら……」
 ラオスでしばしばわからなくなるのは、彼らの金銭感覚だった。宿代や食事代から憶測する物価と不釣り合いな値段が、突然、登場することだった。船賃にしても、10人以上の客が集まれば10万キップですむが、5人なら20万キップほどになってしまう。差額の10万キップというのは、かなりの金額である。僕らが泊まっている宿は1泊6万キップなのだ。朝、船に乗り込み、「今日は客が少ないからひとり20万だな」といわれ、ラオス人はさっと払うことができるのだろうか。彼らがそんな金をいつももっているとは、とても考えられなかった。
 そこにはラオス式の落としどころがあるのかもしれないが、どこか貨幣経済というものの本質が定まっていない気さえするのだ。彼らの発想のなかに、法外な金額を請求して儲けようというものがない。金というものは、天下のまわりもので、なかったらないで困ることもない。日々の生活に、金というものが入り込んでこないのだ。
 しかしラオスに多い欧米人バックパッカーは、こういうアバウトさを受け入れることが難しい。契約社会の掟に骨の髄まで浸って生きてきたのだ。それは日本人も同じだった。
 ラオス人は朝、船着き場に出かける。そこで客が集まっていたら旅の準備をはじめるのだろう。客が少なければ、翌日……ということになる。しかし旅の予定をたてようとする欧米人や日本人は、「それじゃ、困るんだよな」と、自分たちが生きてきた世界の厳しさを吐露してしまうのだ。
 船賃はラオスの流儀に支配されていた。
「明日の朝、船着き場で僕らが客引きでもしますか?」
 それはあながち冗談ではないのかもしれなかった。(以下次号)

(写真やルートはこちら)
この旅の写真やルート地図は、以下をクリック。
http://www.asahi.com/and_M/clickdeep_list.html
「裏国境を越えて東南アジア大周遊」を。こちらは2週間に1度の更新です。

  

Posted by 下川裕治 at 13:45Comments(0)